Brionglóid
海賊と偽りの姫
海港都市ヴェスキア
19
呆然とした様子で、ロイはのろのろと椅子に腰を下ろす。
それからは沈黙が流れ、室内の空気が張り詰めていった。
「すまぬ」
ロイの口からふと、呟きが漏れた。
「軽んじたつもりはなかった。すまぬ」
ルシアスが目顔でその先を促すと、ロイは長い溜め息をついた。
それから、右手を頭髪に突っ込み荒々しく掻きむしり、もう一度、今度は気合を入れ直すように短く息を吐いた。
「必死なのだ、クラウン=ルース。俺は彼女を守るために強くなったと言ってもいい。昔はかなわなかったが、今ならそれだけの力がある。あの当時守れなかったことを謝りたい。償いたい。そのために、俺は……っ」
ルシアスはその様子を眇めた目で見ていた。
馬鹿な男だと見下してのことではない。むしろ、ロイがこうして真剣さを見せる度に、ルシアスも気を引き締めざるを得なかった。
ここで彼を侮っては、彼女を失うのは自分の方になりかねない、と。
密かに感じた怖れを押し隠し、ルシアスは口を開いた。
「成さねばならぬ目的があるのであれば、せいぜい頭を冷やすことだ、コルスタッド殿。このままやりあっても埒があかないのは、そちらもわかっているだろう。沸騰した頭では得るものも得られまい」
ロイは唇を引き結んでやや俯いていたが、眉間がかすかに動いて内心の動揺を表した。
ルシアスは彼の返答を待たずに続けた。
「ヴェーナは実際には何と言ってきた。求める相手がこの船に囚われていると、はっきりそう言ったのか?」
「……」
「それも明かせないか。ならばこの話はここで終わりだ」
「待ってくれ!」
ルシアスが話を打ち切ろうとすると、ロイが顔を上げた。思いつめたような、必死の形相だった。
「ヴェーナは……アリオルで『翠金石の瞳』を見失ったと言ってきた。リスティーの居場所はその時点で把握していたから、別の存在がいたのかもしれない」
「ほう?」
ルシアスは面白そうにロイを見やる。相手の腹の中が読めず、ロイは少し戸惑いながら更に言った。
「しかしその行方までは、ヴェーナでも追えなかったのだ。手がかりを失った俺は、自らの足で情報を集めることにした。そして、アリオルで貴殿がリスティー以外の女性と一緒にいるのを見た、という証言を得た」
ロイは、真っ直ぐな視線をルシアスに向けた。
しかし若い海賊の長はこれといって動揺する素振りもない──もしロイが背後のスタンレイを見ていたら、多少は引っかかるものを感じただろうが。
ロイは眼差しに更に力を込めて言い募った。
「出港直前の話だ。昼間のことだというし、その後貴殿が女性を抱きかかえて船に連れ込んだのだそうだ。一夜限りの娼婦ではないだろう。だから俺は、この船を追うことにした」
『翠金石の瞳』の行方は追えずとも、ルシアス達の行く先を占うことならヴェーナにとって容易いことなのだろう。魔導都市の面目躍如といったところか。
それでもルシアスは平然として、それどころかロイから視線を外さないまま言った。
「何度も言わせるな。貴殿の探す娘はここにはいない」
「何故だ……!?」
ロイが感情に任せて立ち上がり、ルシアスの胸元を掴みかかろうとした、その時のことだった。
船長室の扉が予告もなく開いた。
「ねえ、いつまでかかるのルース?」
二人はもちろん、ルシアスの斜め後ろに黙って控えていたスタンレイまでも、驚いてそちらを見た。
そこに立っていたのはディアナだったが、何となくいつもと様子が違う。
ルシアスは、こういった場に彼女が乱入してきたことが意外だった。同じ船長という立場にある者がすることではない。
「ディアナ。どうして」
「夕餉が終わったら、あたしと過ごしてくれる約束だったじゃない。いい加減、焦れちまったよ」
普段の彼女の話し方とは違い、やや間延びしたような、鼻にかかったような声音にルシアスの違和感は更に強くなる。
これは──演技、だ。
「それに何? 人を部屋から追い出して。いつまで寒い甲板にいればいいの?」
ディアナは胸元に垣間見える谷間を強調するように腕組みして、唇を尖らせた。
突然現れた婀娜っぽい美女に、ロイは目を白黒させている。
ディアナはそれに構わず室内へ歩みをすすめると、慌てて道をあけたスタンレイには目もくれず、着席したままのルシアスの首に緩く腕を巻きつけた。
「ディアナ、取り込み中だ」
彼女の思惑がわからずルシアスは制止するが、ディアナは逆に豊満な胸を彼に押し付け、更には彼の太ももに腰掛けて絡みつくようにしなだれかかった。
「聞けないねえ。話ならこのまま続ければいいじゃない、あたしが勝手にこうしてるだけよ」
言いながら褐色の頬に唇を押し付ければ、ルシアスが反射的に顔をしかめるのが面白かったのか、ディアナは悪戯っぽく微笑んだ。
「……クラウン=ルース。その女性は、その……?」
顔を赤くしながら、目のやり場に困った様子のロイが何とかそれだけ尋ねる。
答えたのはルシアスではなくディアナだった。
「無粋だね、お兄さん。大きな身体しといて、これが見てわからないくらいの坊やなのかい?」
「……っ」
艶っぽい流し目をくらって、ロイが言葉を飲み込む。
スタンレイがそっと顔を背けたが、どうやら奥歯を噛み締めて吹き出すのを堪えているようだ。普段の頭領と彼女を見知っているからだろう。
「言っておくけどね、ここはもともとルースとあたしの部屋なの。邪魔者はそっちさ。でも、お兄さんみたいな立派なガタイの男も嫌いじゃないわ。真っ赤になっちまって、可愛いねえ」
からからと笑って言い、硬直したままのロイにディアナは婉然とした微笑を向けた。
「なんならお兄さんも、一緒に楽しんでくかい……?」
ディアナがルシアスに頬ずりしながら舌なめずりしてみせると、ロイは怯えたように肩をそびやかした。
「ど、どうやら俺の思い違い、だったようだ。クラウン=ルース、重ね重ねすまぬ……っ」
目を反らしながら、早口で告げる。
この歳の男にしては珍しいくらいの狼狽えぶりである。
「俺はこれで、失礼する!」
わたわたとおざなりに頭を下げると、大慌てで彼は入り口へと急いだ。
スタンレイが扉を開けるべく先回りして向かうと、ふとその手前でロイは立ち止まった。
首だけ振り向いて、彼は言った。
「そういえば……、以前ここに来た時に扉のそばに立っていた若者は、今いるだろうか」
「ベインズなら、まだ帰船していないが。彼が何か?」
ルシアスが答えると、ロイは残念そうに「そうか」と呟いた。
「先程街で会った際に、こちらが無礼な振る舞いをして、彼を怒らせてしまったのだ。改めて謝罪したかったのだが、不在なら仕方ない」
バートレットを怒らせた、という一言が三人とも気にはなったものの、ここで問い詰めることは憚られた。
ロイはルシアスに向けて告げた。
「彼もそうだが、彼の細君にも俺が非礼を侘びていたと、伝えてもらえるだろうか」
「……。承った」
ルシアスが了承するのを確認して満足気に頷くと、ロイはスタンレイに促されて一緒に部屋を出ていった。
扉が閉じるのを見送ると、室内にようやく静寂が戻る。
表情をすっかり入れ替えたディアナが、さっきとは打って変わった低い声で言った。
「借り、ひとつ返したからね」
別に頼んだわけではない、と反論しかけてルシアスはやめた。
ヴェーナに関して目新しい情報が得られそうにないとわかった時点で、あれ以上ロイと話す意味もなかった。
「そうだな、一応は助かった。だが、次はもっとマシなやり方で頼む」
仏頂面のルシアスに言われ、ディアナはようやく彼から離れると腰に手を当てて憤然とした。
「無茶言わないでよ、土壇場であれだけやれば大したもんでしょ。それに次って何さ、あの男また来るってわけ?」
ルシアスは彼女に目すら向けない。円卓の上で組んだ自らの指を見つめるその瞳には、険しい光があった。
「奴はそう簡単に諦めない」
「随分きっぱり言うじゃない。根拠があるの?」
ルシアスのその様子に内心怯みながらも、ディアナは努めて表には出さず、誤魔化すようにロイの出ていった扉へと視線を向けた。
あの程度の牽制で狼狽する朴訥な男に、それだけの熱意があるか正直疑問だった。
ルシアスは冷ややかに微笑った。
「心底惚れた女と生き別れたら、どんな男もそうなるだろうよ」
「……!」
ディアナが目を見開く。ゆっくりと振り向いたその顔は少し紅潮していた。
「へ、へえ、そうなんだ……。そりゃ、どこまでも追っかけてくるか。ライラもあれで隅に置けないわねえ」
「……」
ルシアスは考え事をしているのか、微動だにしない。
無視されたことに腹を立てたディアナは、わざと声を大きくして言ってやった。
「そこまで直球で来られたら、あたしだったらそのうち絆されちゃうかも。あんたも肝に銘じておいたほうがいいわよ、ルース」
うっかりしてたら取られちゃうんだから、と彼女は当て擦るように言った。
すると、そこでようやくルシアスは顔を上げて彼女を見た。
ディアナが身構えていると、彼は挑戦的な強い笑みを浮かべてみせた。
「わかってる」
「……っ」
意図せず更に顔を赤らめることになったディアナは、何と答えたものか言葉が見つからずに立ち尽くしていたが、やがて盛大な溜め息をついて独りごちた。
「まったく。ライラに同情するわ……」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったのよ」
ディアナは悪びれるでもなく答えた。
ルシアスに未練がないわけではないが、予想していた程の心痛でもないのに彼女自身気がついていた。いずれその残滓も、時とともに消えていくだろう。
それに、恋に敗れても彼が自分の前から去るわけではないのだと、今回知ることが出来た。
どちらかというと、人魚号の喪失感の方が大きかったのだ。
その事に思い至って、ディアナは苦笑した。
次の船がうんと素敵だったら、失恋など吹き飛んでしまうのだろう、きっと。